故高井泉先生(元玉川大学農学部教授)
『十周年創刊 庭球部々報』 より抜粋
『過ぎ去ったよき時代』
「(略) それでは思い出すままに何か書くことにしよう― 自分が農学部のクラス担任を仰せつかったのは、たしか昭和三十四年かと思う。その頃農学部の学生であった(以下敬称略)蔵重竜也、色部一夫、大田黒恒秀、原敬子、牧野久子や文学部の深作正彦などが、ある日突然自分の研究室に現れて、実はこのたび吾われが、玉大テニス部を結成しようと考えているのですが、どんなものでしょか?あまり突然な相談でちょっととまどったが、自分もその昔軟球ではあったがテニスはやっていたので、一も二もなく大賛成した。(中略) その後何回か集まっていろいろと相談相手になっていたが、とに角現大グラウンドの一角(旧体育館の右下)に高等部が使っていた、まことに哀れなテニスコートらしいものが二面あるだけ。その一面を借りて部員の労作で何とかコートらしいものにしようではないか、と話はまとまり、連日暗くなる頃まで、男女学生が一緒になって砂を運んだり、排水溝を掘ったり、ローラーをかけたりして、一応何とかボールが打てる程度になった。これで一面を高等部に、他をテニス部専用コートに仕上げたのはよかったが、部室もなければ、倉庫もない、ただ一枚のコートがやっと出来上った仕末であった。でも全員連日夕刻まで汗を流して作り上げたコートが出来上ったので、多くもない部員は毎日暗くなる頃までラケットを振り廻していた。彼らのこーとの外嬉しそうな様子を想像して頂きたい。ホントにたのしいそうだよ。 (中略) 一方部員数は昭和三十六年頃から急に増加してきたので、文学部の若い浜田正秀教授に副部長という名目で応援をお願いしたのは三十七年の秋頃かと思う。その後三十九年七月デンマークのコペンハーゲン大学での国際農業学会に出席をかねて、南北米に主として農学部の卒業生が移住している玉川ボーイたちの実態調査を行うため、外遊の途にのぼったのを機会に、テニス部の全責任は一切浜田教授に一任してテニス部から開放された次第であるが最近の盛況と戦果をみて、やはり少々ムリをしてつくったが、思いきってテニス部を設立したのは本当によかったなと喜んでいる次第である。」
浜田正秀先生
私が玉川大学に勤めてから間もなくのこと、通信教育部の夏季スクーリングの放課後に、仲間の若い先生が「テニスをやりませんか」と言ってラケット二本とボールを持って来たので、私は初めてラケットを握り、当時の高等部の横のコートで白球を追った。その時初めて聴いた白球の撥ね返る「コーン」という快音に痺れて以来、私はテニスの虜になってしまった。場外に出たボールを捜していて蜂に追われたり、(当時まだ高等部生だったか)蔵重君に「コートを荒らさないでください」と叱られもした。
それが縁だったのか、後に蔵重君や故深作君から頼まれて、テニス部の部長になり、軽井沢などの夏の合宿で、新人たちと共に白球を追ったり、後にはOBたちの仲人になったりもした。すべて懐かしい思い出である。
私はその後左の半月板を傷めて、テニスをやめる羽目になった。今は傘寿を過ぎて、蕪村に倣って俳句を作り、漢詩を吟じ、水墨画の筆を執り、天気の良い午後は、散策と庭仕事に明け暮れている。後期高齢者といわれても運転は止めないし、生きている限り、私は青春の真っ只中にいる、と思っている。
高井真先生(元玉川大学農学部教授)
―テニス部の思い出
部長の職責中、体験した数多くのイベントでの思い出の1つは、部員諸君と寝食を共にする恒例の夏合宿でした。合宿を恙無く終えることは当然ですが、責任者としての心配の種としては恐ろしい食中毒を防ぐことだったと思います。
合宿では特に新入部員は即戦力的な技術よりもスポーツ選手として必須の基礎的体力、忍耐力、判断力を中心に習得させる練習、それとチームの一員であるという仲間との調和力を会得させるためのミーティングが取り入れられていました。チームワークの重要性は、当時の体育会のリーダーシップトレーニングに絶好のテーマでした。この課題の大要を何となく理解するのに適切な格言的な言葉があります。それはイギリスで主に団体形式のスポーツ界でよく使われている”one for all” ”all for one”です。チームの力はプレーヤーの各人の総合力、つまり調和力にあるということです。
テニスは一見個人的なスポーツと言えますが、学生のリーグ戦ではチームワークのぶつかり合いがその勝敗を左右する場合がありました。
私のテニス部での思い出はまだまだ沢山あります。それ故、テニス部を一番楽しんだのは私であったと思います。思い出話のまとめは“郡山は本当に暑かった、山中湖の水は美味ではなかった”です。諸君にラグビー・フットボール界で使うエールを送ります。
“Hip, Hip, Hooray!”
OGの皆様には、伊達公子さんに続いて早く復帰し、持てる若さを発揮して諸々の大会で活躍される事を期待しています。」
古谷太郎先生(元玉川大学教授)
―古稀を過ぎられた今もなお、全日本ベテランはじめ毎日トーナメントなど様々な試合に出場され、特に毎トでは各年代において優勝・準優勝されている太郎先生。
小原国芳先生はテニスやピンポンなどは女子がやるもので、男子たるものはそんな軟弱な運動はしてはならないと。「道」とつくものを好まれ、剣道・柔道・弓道・相撲などを勧められました。服装についても厳しく女子の短パン・スコートなどは禁止されておりました。ところが皇太子様がテニスを好まれ美智子様がスコートでプレイされているということで、それでは玉川でもいいかと許可をいただいたという、そういう時代でした。
―合宿なども大変だったのでは
初めての合宿は軽井沢でやりました。女子部員もいるので引率者は私だけでは許可が頂けず、女性の引率者も必要だということで、農学部の高井泉先生ご夫妻にお願いして参加して頂きました。その後はOBの深作さんのお姉さんに参加して頂くことにより何とか合宿を続けることができましたが、女性の引率者さがしには苦労しました。
―OBOGに求めることなど
誰かの為でなく、まず自分たちの為のOBOG会を構築していって頂きたいと思います。学生時代おなじ釜の飯を喰ってきた者として、お互いに人の輪を広げることにより、生活が潤いより豊かな生活と、生活の質の向上につながるような会になればいいなと思っています。副会長の手塚美智子さん(1964卒)代表委員の松岡信幸さん(1985卒)がベテランの部で全日本クラスの大会で優勝されており、他にも選手として橋口客子さん(1984卒)大塚淳子さん(1985卒)また委員の望月弘道・美恵子ご夫妻(1981卒)もテニスクラブの経営者として活躍されていることはOBのひとりとして嬉しく思っております。これらの人達に続く人がいつ出てくるのか楽しみにしています。
岡井真一先生(元玉川大学工学部教授)
―朝からテニスと多忙な岡井先生は、午後は健康維持と無農薬野菜のために菜園に出られる。菜園は本格的なもので、トラクターを動かし、専用の仕事場に籠もられることも少なからず多い。
私が就いたのは関東リーグ6部6校制の下部校だった頃でした。部には塾生の初心者が多く、主にボール拾い。彼らとレギュラーの調和を取ることが私の役目と思っていましたね。もちろん学生は学業第一で授業を休むわけにもいかないし、様々な面でバランスを取る事を心掛けていました。ずっと入れ替え戦を戦い続けて、最後は1部校までなり・・・青学に負けて準優勝でしたね。私はそれから学科の教務担当になって両立できず退任しました。
―融和とは難しいですね
そもそも人間は互いに助け合っているもの、だから尊重し合わなければいけません。学生達にもよく話しました・・・神様は人間をオールマイティーには創らない。必ず『何か』に役立つように創ってくれる。けれどそれが何であるか、つまり何に適しているか、は色々やってみないと分からない。その土壌が授業であったり課外活動で、特に体育会だったりするわけです。
―体育会の面白みとは
今練習中は辛いかもしれない。けれど後になって人生の苦境に立たされた時、『あの部活の苦しさから比べればこれは何でもない・・・』そう思える。私の頃も『地獄の振り回し』なんてボールを出し続ける練習がありました。その最中、疲れた、もう嫌だ、と思う。けれどそこからが意味があるんです。体の一連の動作中で力みが抜ける。本能的に楽な(合理的な)打ち方をしようとする。そこで技術面、精神面共に成長する。体育会出身者が就職の際、優遇されるのも理由あってのことでしょう。無論単なるしごきではない。試練、苦しみを乗り越える体験そのものなんですね。
亀ヶ谷博先生(昭和52-54年度 男子部監督)
早いもので、監督時代から約30年が過ぎました。当時、テニス部の男子部員は工学部学生がその大半を占めていました。そこで恩師 濱田正秀先生より工学部1期生の私に「監督就任」のお声がかかり、大役をお引き受けしました。だが、恩師のご期待に添えず任期満了以前にその大役を辞退しなければなくなり,恩師には大変申し訳なかったと思っています。ちょうど私自身の仕事(研究活動)が最盛期で、帰宅は午前様,その他は学会出張等の毎日でした。私のこのような雰囲気を察してくれて、私が不在中は西森氏、丸山氏、中川氏、平山氏、土屋氏(現テニス部部長、工学部教授)がしっかりクラブ運営してくださり、非常に助かりました。次年度は加藤氏、三浦氏、さらに次の年度は島津氏、滝氏、冨村氏が立派にクラブ運営に活躍してくれました。運営には大変な精神的作業を必要としまが、玉川のモットーである「人生の最も苦しい、・・・真っ先に担当せよ」を上記の先輩諸氏は身をもって実行してくれました。深く感謝しております。
戸田春夫先生(元玉川大学文学部教授)
―今朝もテニスをして来られたという戸田先生。ゴルフ、囲碁など多くの趣味をお持ちであり、声楽などはプロの道も考えたというほどである。
私は主に女子の担当をしていました。高井先生がお辞めになって男子も兼任しました。元々テニスはやっていたけれど、体育会と縁を持ったのは玉川に来てからですね。あの頃は関東学生で1部の2位でした、滅法強かった、もの凄いボールを打つな、と思いましたよ。夏合宿は山中湖でした。かなりのハードなトレーニングだった。OBOGなんかも来ていましたね。自分も相手をして腕を上げたものですよ。
―コートなどは足りていたのか
時代の変わり目、丁度体育会離れが起きている過渡期ともいえる頃でした。それでも部専用コートがなかったのは・・・授業と併用ですから。人家からのクレームなんかもあって難儀しましたね。土俵のあたりに作れないだろうかとか探したこともありました。
―これからのテニスについて
入部者が増えるといいですね。しっかり勧誘しないと同好会に流れてしまう。国芳先生の頃は部を跨いでの交流もあった。学内でも学部を越えて野球大会等をやっていましたね。
部内でもそんな風に、また時代を超えても交流できると良い。昔の部長や監督が気楽に行ける雰囲気であるとかね。私は、課外活動は『5時以降の教育』であると思っている。そこからこそが本当の教育なのであると考えて現役時代は部員に接していました。テニス、そのスポーツ性という面のみにおいても、面白さ、醍醐味を知ってもらえるよう、OBOGなどが関わっていければ良いですね。