テニスコートの今(2009年現在)
現在は南コート・北コートの2箇所で部活動をしている。(場所は学内マップ参照) 南コートは3段になっており、上から2面、1面、2面であり上段と中段が大学専用コートで、下段は主に高等部が使用している。サーフェスは上段と下段がクレーコートであり、当初ハードコートであった中段は2007年にオムニコートに改造された。 北コートは横に並んだ3面全面がオムにコートであり、ナイター設備が整っている。部室は記念体育館裏側に男女一部屋づつあり、男子部室にはガット張り機もあり多くの部員が利用している。 練習は男子が火・木・金・土・日曜日 女子が火・水・金・土曜日で、重なる曜日は隔週ごとに使用面数を変更し、活動をしている。 月・水・土曜日と夏・春の練習は南コートを使用しているが、火・金曜日はナイター設備が完備された北コートが使えるので8時半まで練習が出来る。 南コートの3面については、コートが空いていれば自由に使用することが出来、部員は授業がない時間を利用して練習している。 リーグ戦時に於けるコートサーフェスの制約はないのだが、クレーコート2面+オムニコート1面の南コートより、横に3面オム二コートが並ぶ北コートの方が好ましいのだが、そこは色々な団体が使用する為、必ずしも使用確保が出来ないのが現状である。 しかしながら以前に比べ、コートはオムニコートも使える様になり、また、ナイター設備も整い、非常に恵まれた環境で部活動を行っている。
聖山下のコート(1970年頃)
1959年創部当時は高等部下の2面で部活をしていた事はあまり語り継がれていない。間もなくしてオヤジの理解で山を切り崩しテニスコートが作られる事になり、その際には、業者任せでなくテニス部員も労作として加わる事がその絶対条件であった。 労作は木の根っこ掘りと整地、そこに東京神田より買い入れた荒木田をコートに撒き、何回もローラーを掛け、地面を固めた。また、フェンスの柱を立て、金網張り、ペンキ塗りも行われた。 コートの白線は二人で綱を張り、石灰をバケツの中で溶かし刷毛で綱に沿って描くのであった。
テニスを好んで入部した部員は、「夢」の実現のため、テニスとかけ離れ汗一杯の重労働労作を行った。それ故完成時の達成感は他では得られないものにあり、「これぞ玉川っ子」とのオヤジの声が今でも聞こえてくる。 しかし、そんな手作りのコートがなくなってしまった寂しさは、とても筆舌に尽くせない。
このように労作をして作られたクレーコートは聖山の西側下方に位置しコートの西側には木造の部室とプレハブが各々一つ。南側の文学部からの階段を登り手前が女子(創部当初は無かった)後方が男子の部室。男子の部室の壁には縦に「玉川大学硬式庭球部」と書かれた木造看板が掲げられていた。北側は45度位の崖ボールが飛び出してしまうと草木が茂り、探すのが大変なばかりか、蛇との遭遇もあった場所だった。コートは南側に南北に3面北側に東西に1面合計4面であり、北側の1面は練習コートとして主にサービスの練習に使われていた。
聖山より見たコート
当時は下級生により毎朝コート整備が行われた。重いローラー掛け、石灰を溶かし刷毛による白線引きにより整備され、良いコートが維持された。
聖山からは時々合唱部員だろうか、塾生だろうか「歌に始まり歌に終わる学園」らしくハーモニーが、またトランペットの音色も聞こえていたのを想いだす。
雨が降れば文学部の校舎を使い(許可を貰って使用していたかどうかは不明)トレーニング。階段は絶好の足腰の鍛錬場と化し、椅子机を退かした教室では先輩の声が響き、今や行われていないうさぎ飛びをはじめ、腹筋、腕立て伏せ等を行っていた。 そして大雨でない限り第二文学部前の心臓破りの坂(我々はそう呼んでいた)でダッシュを何本も行ったが坂の上で棒を持ち睨んでいる先輩は本当に怖かった! 梅雨時になるとトレーニングの厳しさで退部する新入部員も数多くいた。
1967年、この頃は原宿にラケットを持つ事がファッションとしたテニスを行わない若者が出現し、新入部員数が男女合わすと70名以上もいてコートが賑やかな時代だった。


