皆との合宿での思い出 【1971年卒 上田修一郎】
私は、学生生活を終えてしばらくは、ほぼ毎年山中湖の合宿には参加させて貰いました。我々が現役のころは、暑くて死にそうな郡山が主でしたので、その涼しさは天国のようでございました。
誕生日(7月22日)が、およそ合宿期間中ということから、28歳までは、いつも会社を休んで参加をしており、練習が終わってから、一人で誕生日山中湖1周マラソンをしておりました。しかし翌年山中湖を眼にしたとき、今までと違った湖の大きさに驚き、その年から、走る気さえなくなってしまいました。その後いつしか、私は、現役諸君の山中湖合宿記念マラソンの落伍者収容を目的として、車で走るようになっておりました。
時折すごい代もありまして、毎日、湖を1周走ったとか、小学生の遠足レベルの小高い山を毎日ランニングしとか、そのくらいめちゃくちゃに走りこんだときもあったようです。
でもその世代は強かった記憶があります。山中湖での合宿は、長い期間続きましたが、当時は、今と違って部員も多く、一人、二人、辞めたからといって、どうってこと無い時代でもありました。
そのころの合宿は、二つの大きな儀式がございました。ひとつは合宿の最終日にクラブの正式部委員として認められ、テニス部のバッチを授与されます。女性の半数は、涙していたのを記憶しています。
次は打ち上げ会がですが、生贄を布団蒸しにするとか、山中湖へ放り込むのでございます。どさくさにまぎれて、合法的に、上級生を生贄にしたりもしましたネ。
やられる方にもコツがありまして、途中から、あきらめて身をまかす、変に頑張り過ぎると体勢をひねってかえって怪我をするものでございます。
さらにこの最後の夜は、かくし芸、歌などがあり、新入生の何人かには、その才能に驚かされました。ふすまや障子も破損してしまったこともあり、いつしかなくなってしまいましたが、「東屋」さんの時代だった気がします。
そのころは、コートのラインを石灰で描いており、ここでもラインの引き方はもちろん、石灰の溶かし方にも上手い、下手があり、結構テニス以外の能力発揮の場でもありました。この方法はオンラインがイレギユラーしない利点がありました。
また、クレーの質が荒く、水はけは良いのですが、表面がおろし金みたいで、転ぶと痛く,血だらけになるのもこの時代でした。
北軽井沢時代もございました。まだテニスといえば、軽井沢が憧れであった時代です。
その合宿所の食事が実にひどかった。朝食に、漬物、梅干、味噌汁しかない、このオカズで飯を4杯食べるすごいのがおりました。これだけで、どうやって4杯食べるのか聞いたところ、1杯目は、オカズを見て食べる、あとそれぞれのアイテムごとに一杯ずつですが、勘定の合わなかった一杯が、オカズを見ているだけで食べるというのは、「すごい!」と思いました
河口湖、忍野八海の時代にも、沢山の思い出があります。
そころは、私、まだ平日を誕生日にあわせて連休にして(例えば火曜日が誕生日なら、土、日月,火、)合宿に参加していましたが、ここは、コートが遠く、私の車は、救急車兼、荷物運びで活躍しました。時折、4年生が乗り込みますが、おもしろいことに、クルマにのってコートに行くと、4年生になったのを実感するというのを何回もききました。
さらに、OBにも序列がありまして、実際良くこんなことを細かく工夫したと思えることもありました。
例えば、OB1年生は、現役と対座しますが、座布団が出ない。2〜3年たちますと座布団に座れますが、お茶が出ない、お茶が出るには、5年位たったOBか、でなければ、正式なコーチか監督でないといけないのであります。
これに、監督または、部長が膝を崩すことを許可する前に胡坐を組んで良い事を組み合わせますと、OB間にも結構な序列が出来まして、やはり、「やっと僕にもお茶が出る」と感激したOBがいたのも憶えています。
いつごろからか、朝の素振りもなくなりましたし、練習後の買出しも自由になり、かなり楽しい合宿へと、移行していきました。
そのころ娘が、重い水疱瘡になって、自宅より合宿先に電話があり、玉川の学生に取り次いでもらったのはいいのですが、そんな人(私本人)は居ないと答えたそうです。私、何も知らずに帰宅しましたが、我が家では、私が死んだとか、浮気旅行とか、えらい騒ぎになっておりました。
蓼科の合宿は、料理がとってもおいしく、漬物を見て食べた合宿とは違い、夢のようでしたが、霧が出ると、コート内の相手が見えないほどでした。またペンションでしたので、ミーティングをやる空間がなく、つまらないところで苦労した気がします。
あれやこれやと、あちらこちらで合宿しましたが、現在は、また山中湖に落ち着いているようです。ここは、忍野八海と異なり、宿泊先での富士山の美しさ、夜の買出しの楽しさはあまりありませんが、なんと言っても、コートが目の前にあることが利点です。
何故なら、現役諸氏、特に新入生にとって、用具の運搬もラクばかりでなく、コート移動中の事故もありません。実際ある代は、練習終了後、ランニングして,宿者へ帰る途中、車にはねられた者もおります。その後だんだん部員も少なくなり、一時は、クラブの存続が危ぶまれるほどの時代もありましたが、最近は少し増えました。ですから、全員がコートに入れますが、「見て学ぶ」ということが出来ないという、思いがけないデメリットを感じたことがあります、また、教えた後輩の、娘さんも教えるほど長い間コートに通っておりますと、時には後輩で年も離れているにもかかわらず、私よりはるかに、指導力が、そなわっている人物と知り合えたり、教えているつもりが、実は教えられていたこともありました。
また、私的ではありますが、玉川の教会での結婚の折には、テニス部員全員の協力もいただいたこともあり、この場を借りて改めて御礼を申し上げます。
合宿の思い出 【1991短大教養卒 乾まどか】
今から思い返せば、すぐに思い出せるのは失敗談ばかりですが、よく考えると朝から晩まで、ただボールを追うだけでなく、自分のテニスについて深く考えたのは、玉川大学での硬式庭球部時代だけだと思います。とにかく毎日ついていくことに必死で、朝から晩まで気を張りながら練習をしていたので、正直なところメニューや内容の詳細については、あまり良く覚えていません。しかし、テニスの練習以上に苦戦をしたのが、スキルフルという体操です。スキルフルは5曲あり、すべて覚えなくてはいけなかったことです。その体操は上半身と下半身が、バラバラに動き音楽に合わせなくてはならず、リズム感のない自分にとっては非常に厳しかったことを思い出します。もうひとつは後から気づいたことですが、玉川学園らしい?思い出になると思います、合宿では朝の朝礼で歌を歌っていました、歌の始め部分の音を出し、その後歌の指揮をしていました、私は今までこの習慣について違和感を感じたことがなかったのですが、色々な研修に参加し玉川学園ならではの習慣であると感じています。
合宿を通し同学年の仲間の動きをみて、今自分が何をしなくてはいけないか?何が手伝えるか?周りの人達の気持ちを考えること・協力することの大切さを学ぶことができたことは、大きな収穫だったと思います。
初めての合宿 【1963年農学部卒 色部一夫】
女子の服装に関しオヤジに粘り強く交渉の末、テニスコートまでプレゼントしてもらった我々4人(別項 創部時の想い出に記載)は大いに張り切り、部員の勧誘、テニスコートの確保などに奔走したが、先ずは体育会の部として技術向上をするには、「合宿が絶対条件である」という4人の意見が一致。
どうせ行くならテニスのメッカであった軽井沢しかないということで、第一回夏の合宿は軽井沢千が滝スケートセンターに決定した。総勢約27,8人だったと思う。
正直なところ軽井沢に決めたのは、技術向上のため、部員の結束などは、単なるうたい文句に過ぎず、遊び半分な気持ちの方が大きかったように思う。
しかし、それを厳しく仕切って下さった当時体育の教師だった古谷太郎先生がコーチとして参加。うさぎ跳び、階段の駆け足登り降り、ランニングなど厳しいトレーニングに全員がダウン。
「こんな厳しいのはイヤだ」という部員までいて、真面目と不真面目が対立。練習後などスケート場に行きスケートをやっている部員までいた。
「折角来たのだからしっかりやろうぜ」は掛け声だけ・・・
まあ玉川の自由さはこれで良いのか疑問に思えたのだった。
第二回の合宿は大阪。軽井沢の反省もあって、ある程度はキチンとした合宿活動になったのだが、とにかく暑くてコートで倒れる部員もおり、夏の合宿の場所も考えなければならないと思った。
大阪合宿でボールを拾いに行って“溜め”に落ちたのは色部だったという、10周年の記念冊子の寄稿文にKさんが書いているが、あれは小生でなくYクンの間違いである。この機会に訂正をしておきます。
体育会はどこの大学でも厳しさが話題になるが、第一回合宿の反省はあるものの、今後も誰でも入部が出来て、誰にも親しみを持てる楽しい体育会テニス部であって欲しい。
1967年夏 郡山・開成山合宿 【1969年英米文学科卒 柴野健吾】
●涙に魅せられて
事務局から‘67年頃の郡山・開成山の夏合宿の思い出話を寄稿してほしいとの要請があった。その依頼を受けたあと、正直言ってなんで私にかよと、いぶかった。なにせ私は、練習嫌いの、朝にからっきし弱く、体力なしの、自他ともに認めるグータラ部員、現役中ただの一度もレギュラーになれず、テニスを続けてきた理由が、初めての追ん出し会で見た先輩達の瞳のあふれんばかりの涙にあこがれたということだけだったのだから。
それはさておき、40年にもならんとする遠い昔のこと、合宿の日程、練習メニュー、練習テーマ等々、大事なことは皆目おぼえていないけれど(そんなことは私に期待していないか)、合宿時のエピソード等を思いつくままに記してみたいと思う。
●開成山の空は、ただただ青かった
「なんで、こんなにクソ暑いところで合宿しなきゃならないんだ」
今なら、まっとうで、分別ある人間ならば誰でもそう思うはずだが、当時は根性テニスの全盛期、過酷な状況下でいかにそれに耐えることができるかが、いの一番の大テーマではあった。軟弱な私たちに体力を付けてやろうという、先輩たちの優しいお心遣いは重々承知しているのだが、それにしても開成山の空はただただ青く、太陽は強烈だった。
根性テニストレーニングのごく一部を紹介しよう。
今ではとうてい考えられないコート2面の外周を回る「うさぎ跳び」、焼けたコートにあお向けに寝そべっての、5分くらいだったか、足上げ腹筋(足を地面に付けようもなら、シューズがお腹に飛んできた)、それに何回ぐらいだったか、永遠に続くと思われた腕立て伏せ、何本だったかこれもエンドレスと思われるほど続くダッシュ、ダッシュ、またダッシュ、等々。
加えて、もっと信じられない、根性テニスの最たるものといってもいい、練習中の水分補給禁止令、つまりあの太陽ギラギラの炎天下、長時間一切の水分を取らずに動き回れという非科学的な、神秘を越えたといっていいほど過激な規則が、当然のようにまかり通っていたのである。
しかし、これじゃー、われらうら若き下級生の命が危うい。そこで、誰だったかわれらの同胞が、この危機を救うべく卓越したアイデアを思いついた。
そのアイデアというのはこうだ。
まず、合宿所の旅館のお嬢さんを口説いて、大きめのブッカキ氷を用意してもらう。
そう、今思い出した。たしかお嬢さんは、ゆりさんといったっけ。瞳のきれいな餅肌の、清潔な色っぽさがある素敵な人だった。今頃どうしているのかしら。
閑話休題。そのブッカキ氷をバスタオルに包み、コートに持ち込み、練習中に顔の汗をぬぐう振りして氷を舐め、のどの渇きをしのごうという寸法である。しかし、この素晴らしいもくろみ、残念ながらあの暑さで氷がたちまち解けてしまい、文字通り水泡に帰してしまったのだが・・・
●潤しの雨、そして恐怖の雷神
合宿何日目だったか、それは突然起こった。
その日も、例によって昼下がりの空は青く晴れ渡り、過酷な太陽が容赦なくコートを照りつけていた。そして、のどの渇きはまさにピークに達していた。
と、そのとき、遠くの山の頂の空にポツンと黒い点が見えた。その点は見る見るうちに広がり、山を覆う暗雲になっていった。
「こっちへ来い! こっちへ来い!」
懸命の祈りが通じたのか、コートの上のあの青い空が、一天にわかにかき曇り、それこそバケツをひっくり返したという表現そのままの雨が、ドドンときた。
下級生のほとんどが、空に向かって大口を開け、雨水で渇きを潤したのはいうまでもない。
しかし、そのあまりにもみじめな行為に、天がお怒りになったのかもしれない、突然鋭い閃光が走り、耳をつんざかんばかりの激音とともに、雷がフェンスのそばの木に落ちた。木に落ちると同時に、コートの金網のフェンスの上をぐるっと真っ赤な光が走ったことを今でも鮮明に覚えている。すぐに避難したおかげで、フェンスに寄りかかっていたOBが軽く吹っ飛ばされたぐらいで事なきを得たが(練習中、現役がフェンスに寄りかかっていようものら、それこそ○○○)、本当に幸いのことであった。
それにしても、あの雨水は美味しかったなぁー。今でも雷鳴を聞くと、恥ずかしながらのどがゴックンとなってしまうのは私だけではないだろう。
●すがすがしさの本質
それにしても、合宿終了後に感じたあのすがすがしさは、いったい何だったのだろう。後年、追ん出され会で私自身が先輩達と同じ涙を流したときに感じたすがすがしさ、事をやり終えた後の満足感でも充実感でもない、何ともいえないすがすがしさ。それは多分、ほんの少しでもおやじ・小原圀芳学長の心に触れた、玉川っ子だからこそ感じることのできる感情なのかもしれない。
おやじは、本当にすがすがしい、そしておっかない学長だった。朝っぱらからテニスをしているのを見つかるようなものなら、
「馬鹿もん!朝は勉強するする時間ぞ!」
と、大声上げて怒られた。大学生を真っ赤な顔してどやしつける学長なんて、普通いない。
愚にもつかないことをいろいろ記してきた。最後に一つお願い事をして、この拙文を終えたいと思う。
オヤジ(学長)に象徴されるあのすがすがしさを、いつまでも忘れない玉川っ子たる体育会庭球部、OB・OG会であり続けてほしいのである。