History

創部時代の思い出

オヤジの怒り “創部時代のテニスウェア” 【1963年農学部卒 色部一夫】

 今から約50年前に玉川大学に体育会テニス部を発足させ、関東学連に所属したまでは良かったのだが、それに伴い色々な規則に合わせなくてはならないのに苦労した。
 その第一はテニスウェアであった。男女共、白を基調にした衣装は良いのだが、問題は女子のスコートであった。当時、玉川の女子の体操服は黒いトレーニングパンツで絶対に太ももを出してはいけなかったのである。通学服のスカートも膝が隠れる長いものでなければ、オヤジ(小原國芳学長先生)にこっぴどく怒られたものだ。一応体育会テニス部であるには、他校とも試合をしなければならない。しかし、女子のトレーニングパンツでは、マナー違反は無論、とにかくみっともない。(昨今はパンツ姿でプレーをしている女性が多いが、当時は白のスコート姿に品の良さを感じたのです。)
 さて、何とかオヤジを説得しなければ・・・・蔵重、深作、太田黒そして小生。怒鳴られるのを覚悟でお願いにあがった。案の定ものすごい勢いで「日本の女子たるものが、そんなみっともない格好が出来るか〜!!それだったらテニス部など辞めちまえ!!」と言われ、4人は意気消沈して引き上げたが、それから諦めずに何度かの交渉の末、「そんなに熱心なら・・・・」とオヤジは快く承諾してくれた。其の上、テニスコートを作ってくれることを約束してくれたのである。聖山の下に4面のコートが出来、テニス部が自由にプレーすることが出来た。今考えると女子のテニスウェアで特に男子部員が熱心に交渉し奮闘したことはおかしな事である。
 他校との試合は男子が7部、女子は5部、それぞれ一番下のクラスからのスタート。テニスコートが充実しているにも関わらず、弱いの弱いの・・・・。男子の最初の試合は外語大だったが、とにかく曲がってくるサーブが取れない。構えていてオデコに球が当たってしまった選手までいて、相手選手に呆れられてしまう程であった。後で曲がるサーブがスピンサーブだと知ったのである。唯一、女子部員で伊藤美智子(現手塚OBOG副会長)が関東学生になった。「ミッチー良かったね」と部員全員が祝福したが、女子が試合に出られるように努力したお蔭である。
 玉川大学庭球部の初めての快挙であった。

創部当時の思い出 そして今 【64年卒 手塚美智子】

 もう50年前の事です。当時のことは記憶も定かではありませんが
テニス部に入って最初の試合は、フェリス女子大学との親睦試合だと思います。コートは、高等部の下の2面でした。
その時の様子や勝ち負けに関しても記憶が乏しく、ただ無心で白球を追いかけていたことを思い出します。
日没の早い秋の練習は、汚れて見難くなったボールに白い石灰をつけて、先輩達にボール出しをしていただきました。
今と違って新しいボールは手元に充分無く、このように工夫をして練習をしていたのです。
その当時は、先輩の方々の指導、計画についていく事しか考えていませんでした。
 連盟に登録したり、リーグ戦にいつから参加したか等は、ハッキリはわかりませんが、私が2年生の時には出場していたかと思います。
 そして関東学生になったのは、私が4年生の時で、その当時は、次へつながる大きな大会だという認識はなく、試合に出られる嬉しさだけだったように思います。
そして現在は日本テニス連盟のベテラン大会に参加して、その頃、シード選手だった方々と対戦できる事で、テニスを続けていて良かったと・・4決めで、慶応の選手に負けたように記憶しています。

 マネージャー記録は、どうしたのでしょう?
大事なものとして引き継がれているものだと思っていました。
記憶もアヤフヤになっていますから、記録にそって辿っていけたら、もう少し思いだせると思うのですが・・・

【編集者からの追記】
手塚さんはこの全日本ベテランランキングに於いて常に上位にランクされ 
過去輝かしい戦歴を残されています。 現在の様子は下記サイトで
http://www.jop-tennis.com/V/

創部時代のテニス部と私 【1966年農学部卒 森 恭四郎】

 学園のテニス部との関りは、高等部のテニス部から始まった。
現在の屋内プールの辺りにクレーコートが2面あった。非常に水はけの悪いコートは、雨が降ると2〜3日は使用できないことが度々であった。
当時は高等部と大学のテニス部が共同で使用していた。従って、大会に出ることもなく趣味でテニスを練習していた私は、大学の諸先輩の顔をその時から存じ上げていた。
このような関係から大学に進学しても何の抵抗もなく、気がついたら何時の間にかテニス部に在籍していた。
 入部し1年の終わりころ聖山の下に3面半のレーコートが完成した。
金網支柱のペンキ塗り・ローラかけ・ライン引き等々が主に1・2年生の役目であり、この頃が体育会としてのテニス部の誕生期と言つても過言では無いかと思う。
 大学に入学した私の教室はテニス部の部室とテニスコートでした。
皆様より長くテニス部に在籍させていただきました私にとってテニス部の思い出は楽しい事ばかりが記憶として残っており、不思議と悪い記憶は甦りません。
テニス部に関わった間に体験したさわりの無い事項を下記いたします。
関係の有る方は昔を思い出し、当時の青春時代を回顧して戴き、また若い方には、自分が所属する会(部)にはこんな事が有ったのかと 知って戴ければ幸いです。

*納会、追い出し会
1・2年生時代は、下北沢駅前の“小清水”の座敷を借りゲームをしたり純真でした。
3・4・5年生時代は、“八芳園“ “日活ホテル“等々一流どころで開催。

*合宿先
甲府、郡山(古い旅館で“熱田屋“)仙台、原ノ町。

*トレーニング
新学期を迎えると、今では考えられないほどの人数が入部するため、初日からトレーニングと称して文学部の急坂の往復ダッシュ・腕立て伏せ・腹筋、を1週間も続けると半分くらい退部しました。入部時入会金と称するものを徴収し部の活動費に充当していたと記憶しています。
入部する大半の男子は女子部員のユニフォーム姿に憧れ、不純な気持ちを持っっていたようでした。
新入部員をイジメた快感は今でも忘れません。(?)

*年功序列制度
リーグ戦の出場選手は、なぜか先輩からの選出が多く、先輩であればレギュラーになれるとの不思議な年功序列制度が確立していました。(先輩の方々ゴメンナサイ)

*ドボン事件
ある合宿中にコート外に出たボールを探しに行ったY先輩の姿がいきなり消えました。
消えた先は肥溜めで、全身美容中だったそうです。その後Y先輩の渾名は、なんと“ドボン“
しかし、農学部卒業でテニスの練習中にも農学の実習をされたそのY先輩を今でも尊敬しております。

*チョコレートボンボン(ウイスキー)
合宿、遠征時は禁酒である事は今も変わらないと思いますが、山梨大学への遠征宿泊先で酒好きのK先輩が布団の中でモゾモゾしているのを発見。声をかけて良いものやら躊躇していると、先輩が気付き手招きされ身を固くし傍に(瞬間別の想像が先に立ち?ましたが)行くと、お前も飲めよ(多分食べろとは云われなかった)と云われ、ウィスキーの入ったチョコレートボンボンを先輩の指示通りに頂戴きました。確かウィスキーの小ビンも傍にあった様に記憶しています。(その時ばかりは先輩の指示に当然絶対服従の私でした)

*ネクタイ事件
都内でテニス部の会合があり、その後我が家でマージャン(当時マージャンが盛んで晴れればテニス、雨天はマージャン)をする事になり、H先生も参加いただいた。ある者は浴衣に着替え、各自ラフなスタイルで対局。終了後帰り支度をしているH先生のネクタイがどうしても見つからず、捜索の結果、ある部員が浴衣の帯に使用していた事で捜査完了。(犯人はI君でした)
その後もH先生の自宅で数度雀卓を囲み、教授と学生が同時にこのようなゲームに興じてよかったのか今思い出すと…。
その後、H先生には私を始め数人の部員が仲人を引き受けていただきました。

*混合ダブルス申し込み
学連に試合の申し込みにある先輩が行き、男女のシグル・ダブルスと混合ダブルスの申し込みをしたそうです。学連の受付担当者の軽蔑した眼差しが目に浮かびます。
今でも混合ダブルスは無いですよネ。

*キセル事件
郡山での合宿に、補習授業で遅くれて参加する後輩達が夜の列車で到着するため、郡山駅まで迎えに行った事がありました。 しかし一人だけ改札口に現れず、ホームを探していると何と柵を乗り越えようとしていたのですが、後一歩のところで駅員が発見!。
私は身柄確保された後輩の引受人として謝罪。
しかし拘束された当の本人は、「もう一歩だったんですが・・・残念!」 と罪の意識はまったく無し。
でも、彼のテニス部での存在はユニークで憎めなく、今でも記憶に残る後輩である。
(その人の名は、M君です。テニスは下手でした)

*毎日トーナメント1回戦
毎日トーナメントにダブルスでエントリー。1回戦で当時のデ杯選手でも有った長崎・西村選手と対戦。場所は今の神宮ローンテニスクラブの1番コート。観客スタンドは無いがコートの周りは観戦者でいっぱい。
結果は1−6、1−6の惜敗?。
我が実力の低さを痛感した次第。(当時のペアーはM君)

*オーバーヒート事件
卒業後現役の軽井沢での合宿に参加しようと、O君の車(当時はかっこ良かったコンテッサ)で夜東京を出発。今のように高速道路無く国道を走行中、後続車のクラクションで湯気を吐きながら走行している事が判り停車。なんとファンベルトが切れカッコ良い車はオーバーヒート。翌朝ようやくファンベルトとラジエターの水を調達し合宿所に到着、睡魔と疲れでコーチどころではなく睡眠に集中させて頂きました。

*その他
まだまだOB・OG諸先輩・後輩の事件等を多く記憶していますが、公表できないものもあり割愛をさせて頂きます。
しかし、とにかく楽しく思い出の多かった我が愛する学園のテニス部生活を送れたことを事を、私は今でもありがたいと思っています。
そしてその思い出はこれからも心の中に大事にしまっておきます。

玉川大学庭球部創部当時写真